その日、真っ暗と広がる空間の中で、ランタンの灯りだけがまるで空虚を照らす道標のように、 淋しくもあり美しく、ゆらゆらと幽玄な世界を映しだしていた。
9月にベルリンで出会ったKeisuke Sugawaraに誘っていただき、彼と今作のパートナーChristina Dyekjærの舞台「mellem to – en mand,der sidder navnløs,en kvinde med en Lanterne – 虚無の人。灯を持つ人。」の公演を観に行った。
“mellem to”は、彼の頭の中にある幻想や幻影、そして突然引き戻される現実世界が、作中断片的に盛り込まれているように感じる。時折、その幻想の間で、ふと自分の過去の記憶がフラッシュバックされる瞬間に息が浅くなり、魂が体から離れてしまうようなとてつもなく恐ろしい瞬間があったり、まるで”幽体離脱”をしているかのような体験だった。
記憶の中の景色や人々、自身の感覚や感情などに焦点を当てた彼の作品は、どこか、我々が潜在的に持っている生きることに対しての虚無感や焦燥感に一時的に訴えかけてくる作用がある。その比喩表現として、彼は「ランタン(陽)」と「椅子(陰)」を舞台のパフォーマンスとして使用しているのだろう。つまり、この作品は彼の自伝でもあり、虚無感に苛まれるということの根本を見つめ直す作業は、自身における生命(生きるということ)そのものを考える作業と同じなんじゃないか、と私は考えた。
一つ一つの所作に、漢字の書き方で例えるならば、「とめ」や「はね」がしっかりと振付の中に組み込まれており、雨の音が聞こえる中で、男(虚無の人)はびっしょりと水に濡れ、重く鉛のようになったガウンを羽織っているようだった。ただ、このずっしりと重みのある動作からは、その男の内にある生きることに対しての”問い”が垣間見え、その思い自体に困惑し、恐怖している姿にも見えた。
男の背後をまるで扇風機の先に取り付けたビニールのように舞う”意識(灯を持つ人)”は、規則性を持たず、無表情ではあったが基本的に明るくオープンで、物怖じもせず彼の周りを常に回っていた。序盤、男はその意識に嫌気を感じ離れようとするが、終盤に差し掛かるにつれ、「虚無の人。灯を持つ人。」という2つの魂はどちらも自分自身であると気付き、男は最終的にその意識を受け入れ、許し、共存する生き方を選択したようだった。
この”問い”こそが、彼の中に渦巻く「生に対しての虚無感や焦燥感」であり、人間誰しもが持っている過去の記憶やトラウマという重荷に対して、どう向き合い、共存していくべきかを考えさせられるような、非常に人間の深層心理へと潜り込んだ作品なのではないかと感じた。
ランタンの灯りとして例えられた”意識”は、男を導く道標となれば、不気味な火の玉のように彼の行手を塞いで邪魔をする時もある。それは簡単にいえば、古びた旅館の壁のシミが人間の顔のように見えなくもない…、そんな程度のものかもしれない。雨の日って憂鬱だよねという人もいれば、雨の囁く音に包まれている気がすると感じる人もいる。そうやって、人は全て「捉え方」によって生きることに対しての構えが変わってくるのだ。
見終わった後、正直、この男の物語がハッピーエンドで完結したとは思えなかったが、この男にとって、生への大きな気付きになった事には間違いないだろう。
21.09.2019
「mellem to – en mand,der sidder navnløs,en kvinde med en Lanterne – 虚無の人。灯を持つ人。」
director:Keisuke Sugawara
actor:Keisuke Sugawara,Christina Dyekjær
photo:Kei Tanaka