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CEEYS Interview “WÆNDE” The world you see and don’t see

Interview: ARI MATSUOKA Date of interview: 27 July, 2020 Globalization is supposed to create a world where national “borders” become increasingly permeable and irrelevant, but, ironically, the world as we see it is crisscrossed with dividing lines. Our world today is full of divisions due to racial, religious, economic, generational and various other factors. What […]

Dasha Rushが捉える音響空間とサウンドの関係性 – トイフェルスベルク元スパイ塔跡地

words : ARI MATSUOKA ベルリンの壁が崩壊した1989年以降、物凄い早さで急成長を遂げるこの街には、今もなお未開発の廃墟が沢山存在している。ベルリンでは新旧の建造物が共存する魅力的な街でもあるが、やはり建物自体の寿命には敵わない。私自身、移民としてベルリンで過ごした1年間のあいだにも、老朽化したアパートや建造物が惜しまれながらも取り壊されていく瞬間を何度も目の当たりにした。 最近だと、ミッテ地区にあった「タへレス」というアートハウス(スクワット)が跡形もなく無くなってしまった。ベルリンアートのシンボルだったタへレスは、2012年の閉鎖以降、建物こそ存在を残していたが、私がこの街へやってきた2019年の夏、その面影はあっという間に消えてしまった。 こうして次々と現代に均されていく中、西ベルリンの小高い山の上にあるトイフェルスベルク元スパイ塔跡地にて、ベルリンで活動するダシャ・ラッシュがレコーディング実験を行うということで現地へ向かった。 「悪魔の山」と呼ばれるトイフェルスベルクは、第二次世界大戦の爆撃で廃墟になったベルリンの瓦礫を集め、それらを積み上げてつくられた人工的な山。冷戦時代にアメリカ軍とイギリス軍が、東ドイツ、さらにはソ連の無線傍受に適しているとして、西側諸国が諜報目的でレーダーを設置した。かつては盗聴用として建設されたスパイ基地だが、ベルリンのアーティストや音楽関係者たちはその特徴的なドーム型の空間に目をつけ、新たなサウンドスペースへと変貌させたのだ。 8月16日、この日のレコーディング実験は、出演者及び関係者からのダイレクトメッセージで招待されたものだけが参加出来るというパーソナルなイベントだった。駅から会場までは徒歩で約30分、西と東が資本主義と社会主義によって分断されていた当時を思わせる、その異様なドーム型の物体を目指して山の頂上へと向かっていった。 このイベントはドッツ・ギャラリーが主催しており、不定期で建物全体を使ったサウンドパフォーマンスやインスタレーションを行なっている。 上部にあるドームは、いわば自然な放物型のリバーブチャンバーとして用いられ、何百メートルもの音響ケーブルを使用し本館1階にあるドッツ・ギャラリーの録音スペースからドームへと音楽が送られる。ドーム内へ送られた音響信号はL/Rのスピーカーで再生され、その反響音が2つのマイクで録音され1階にある録音スペースへと返されるという仕組みになっている。 光の屈折と同様、音に関しても広い空間と狭い空間では音の鳴り方が異なり、空間に存在するオブジェクトの材質などによっても変化してくる。今回着目する点は、そのオブジェクト(元スパイ塔跡地)とドームを使った反響音(リバーブ)である。ループした同じ音源にも、リバーブを加えることによって音全体の肉付きが良くなり、艶っぽい印象を与えてくれる。アンビエントやエクスペリメンタルミュージックのライブパフォーマンスを専門とするサウンドアーティストたちにとって、音響空間表現を熟知することは非常に重要なことなのだ。 写真ではわかりにくいが、大きく開いた扉の奥にはドッツ・ギャラリーの録音スペースがあり、ダシャ・ラッシュとオペラ歌手のサロミエがパフォーマンスし、観客は目の前に設置されたオリジナルスピーカーから流れる幻想的な音響空間を楽しむ。 正直かなりマニアックな実験パフォーマンスだと思ったが、観客の中にはアーティストや音楽業界で活躍する人たちの姿が多く見えた。 会場で使用される機材はほとんどが自作のもので、写真のようなカートと一体となった移動式スピーカーが左右に2台設置されていて、左側のスピーカーからは録音スペースからリアルタイムで送られる音が流れ、右側のスピーカーからはドーム内へ送られ反響して返ってきた音が流れる仕組みになっている。 この日のメインアクトであったダシャは、自身のレーベル「フルパンダ・レコード」を主宰するDJ/プロデューサーであり、アーティストやダンサーと共に劇場や映画館などでインスタレーションを開くなど、より実験的で芸術的なサウンドアーティストとしても活動している。 今年はコロナウイルスの影響もあり、世界各国で音楽フェスや大きな野外イベントは軒並み中止。ベルリン市内では、未だライブハウスやクラブハウスの営業規制が厳しい状況にある中、常に音楽とその他芸術表現の融合を研究し続けるベルリンのアーティストたちの強い意志と実行力を目の当たりにした。ベルリンで活動するアーティストたちは、既にニューノーマルな時代へ突入していくこと受け入れている。寧ろ、コロナウイルスの猛威について未だ議論を交わしている人は少なく、自然環境問題や貧困国の食料不安など、更に大きなテーマについて真剣に考え訴えかけるような動きを見せているように感じる。 NASAは時々、宇宙からやってくる電波の振動を音に変換したデータを公開しており、音楽家ブライアン・イーノは天体物理学者と組んで星の内部で発生した音で宇宙オーケストラを作ろうとしている。これからの時代は、ただ流行りを追うものではなく、私たちの日々の暮らしに関係する言葉や雑音、自然音に寄り添うようなサウンドが求められるだろう。 Dasha Rush Official Webpage Instagram Alexandra Pyatkova YouTube DOTS Gallery Official Webpage Instagram

人種問題やウイルスによる国境封鎖、ニューヨークで活動する音楽プロデューサーFurozhに独占インタビュー

Interview: ARI MATSUOKA Date of interview: 14 July, 2020 アメリカ・ニューヨークは世界で最もコロナウイルスのパンデミックに苦しんでいる。誰もが2メートルの距離を保ちながら立ち話しをするニューノーマルな時代へと変容し、家族や恋人、親しい友人とも気軽に会うことが許されなくなった。そんな中、ジョージ・フロイドの殺害から始まったBLM運動は未だ活発に行われており、私たち人間は社会の断片化ではなく更なる連帯が必要な状況だといえる。 ハウス、アンビエント、ダウンテンポ、トラップ。ニューヨーク在住 @offthescene_ のプロデューサー兼創設者である Furozh は、音楽スタイルを柔軟に変更してDJミックスのように聴かせることが出来るトラックメーカーだ。 分裂と格差がコロナウイルスの噴火によって明らかにされたニューヨーク。 市の現状について困難な状況の中、彼にメールでインタビューをした。 Q1 出身地を教えてください。  ニューヨーク・バーノン出身。 Q2 ニューヨークでは最近、3ヶ月続いたコロナウイルスによるロックダウンが解除されました(6月20日のインタビュー時)。人種差別デモの最中で、ニューヨークの街の様子や住んでいる人々の様子はどうですか?また、”curfew”制度とはなんですか? 多くの住民が、人種差別の問題よりも、コロナパンデミックによる生活への不安の方が気持ちも大きかったと思う。その中で起きた人種差別デモ(以下BLM運動)に参加する人々の中には、アメリカ政府に対する不満や、情勢への不安をただ発散するためだけに暴動を起こす者も多くいた気がするな。 ニューヨークでBLM運動が起きる以前やその最中も、罪のない黒人が殺されているという事実は変わらない。そして、デモが過激化することによって、アメリカに住む黒人たちが危険にさらされているということも事実なんだ。 “curfew(カーフュー)”とは、一般市民に対して公権力の行使として例外的な場合を除き夜間の外出を禁止するという意味で、ニューヨーク各地で実行されたもの。住民の安全を確保するためのもだと政府や警察は言っていたけど、実際のところは、僕たちニューヨークで暮らす市民たちの発言や正義を探し求める行動を抑制しているようにも感じたよ。 Q3 昼間のデモに参加している人たちと、夜間のデモに参加している人たちでは活動内容や人種に違いは見られますか?  昼間に行われるデモは家族連れや年配の方など、平和的で落ち着きがあり、それこそ”政治運動”と呼べるものだった。ただ、実際に見られている人数や参加している人数の規模は夜間の方が多くて、その大多数は若者たちによってデモが行われていたよ。人々の通勤時間や外出時間によって、年齢や人種は違っているように見えたかな。 Q4 あなたがニューヨークに住んでいて感じる差別はありますか?人種に問わず、セクシャル、宗教、世界観問いません。 勿論! Q5 私は有色人種という言葉が好きではありません。特に肌の色で不正に扱われることがあってはいけないと感じます。アメリカでここまでBLM運動が暴徒化してしまった理由はなんだったと思いますか? それはアメリカの国民が皆んな疲れているからだと思うな…。僕たちは何年もの間、この馬鹿げた運動にうんざりしているよ。多民族国家アメリカで暮らす有色人種と呼ばれる人々は、肌の色が異なるだけで殺されているという事実から目を逸らすことはない。 実際に僕自身もBLM運動に参加していたけど、アメリカ政府は黒人が肌で感じている不安や恐怖を本当の意味で理解していないように感じた。もし自分が違った人種で生まれていたら、この状況を見て一体どう感じるのだろうって色々考えることもあったよ。 Q6 ロックダウン後、音楽活動にどう影響がありましたか?  僕は自分自身を保つことが一番大切だと思っている。家族や周りの友人たちは「それが一番良いことだ」と言ってくれたけど、30歳黒人男性の一人として、今の現状で音楽活動を続けていくことは足踏み状態みたいで、正直苦しい時間だね。 人種差別は継続的に繰り返されている。黒人の奴隷制度は終わっていないし、教科書は、なぜ黒人への奴隷制度が適応されたのか、どうして未だにこの制度が終わらなかったのか、真実を述べたことはないし教えてもらったことはない。昔はKKKという白人至上主義者の団体による黒人狩りも日常的にあったし、今もなお、アメリカで生きる黒人が怯えて暮らさなきゃいけなくて、黒人は白人と心から安堵して話すことさえできないと感じている人もいる。 僕にとって音楽活動を続けることは、今世界でどのようなニュースが報道されているのか、真実のメッセージを強く届けるためにとても役立っているんだ。 Nas、public enemy、Mos Def、prodigy、KRS-one、ab-soul、CAPITAL STEEZ、2pac、etc…僕は尊敬する黒人アーティストから沢山のことを学んだよ。これらのアーティストは、黒人であるがゆえの心境や感じたことを覚悟と信念を持って発信していて、僕も今置かれた状況に決して目を背けず、しっかり受け止めようと思ったよ。 Q7 以前、アメリカのBLM運動の報道をニュースで見ました。彼らは暴動ではなく、ダンスや音楽で”平和的”な解決を求めていました。アメリカのデモを通して、あなたは音楽でどのようなメッセージを伝えたいですか?また、この問題を機に自身が変わった部分はありますか? 僕が伝えたいことはこの事件が起きた今も昔も変わらないよ。唯一変わったことと言えば、音楽制作の環境を今以上に整えようと思ったことかな。コロナウイルスでのロックダウンやBLM運動を通じて、自分と考え方や向いている方向が違うなと思った人とは反論せずにうまく距離を取れるようになったし、そのような人たちに囲まれることも無くなったよ。 Q8 ニューヨークで音楽活動を続ける理由はなんですか? この街は僕が音楽を始めるきっかけをくれた場所だし、僕が音楽を続ける理由を毎日思い出させてくれる場所なんだ。  Q9 人種、ウイルスによる国境封鎖、2020年は境界(Border)について考えさせられることが多い年のように感じます。”BORDER”という文字を見て、今感じることや思うことはありますか? 平等な社会はまだまだ遠く、世界は分離しているように感じるかな。 Q10 最後に、これからもニューヨークで音楽活動を続けていきますか? はい、勿論! […]

Furozh Interview “SAY NO TO RACISM WE ARE ALL HUMAN”

Interview: ARI MATSUOKA Date of interview: 14 July, 2020 New York, USA suffers from the most coronavirus pandemic in the world. Transforming into a new normal era where everyone can stand up to a distance of 2 meters and easily meet family, lovers, and close friends It seems that we human beings need more solidarity […]

プカプカ

先日、ベルリンに住んでいて初めて湖に行った。 その日は6月だったけど気温は31度と夏日のようで、人生で初めてタンクトップ一枚で外へ出掛けた。逞しい二の腕をしているので、これまでキャミソールやタンクトップで周りの目を気にせず外出出来る人が羨ましかった。でも、この一年でいい意味で無駄な羞恥心も消え、他人の目を以前より気にしなくなってから、よし今だと腕を出して外に出た。たったこれだけのことなのに、私にとっては結構なチャレンジだった。海外に出てくる勇気があるのに、タンクトップを着て外を出歩けなかったなんて、ヘボくてなかなか言えなかったんですよね 。 電車を乗り継ぎ、湖の辺りまで徒歩も合わせて約2時間。Liepnitzseeという森の中の湖へ。 ベルリンの都心部にも遊泳できる湖は多いみたいだけど、その日は夏日。皆、きっと考えていることは一緒に違いない。小旅行気分で、1時間も電車に揺られていれば沢山の自然公園と出会える。そんなベルリンも、ようやく滞在1年目で知ることが出来たので単純に嬉しかった。 砂場に到着するなり、早速服を脱いで水着姿になる。水着で日光浴なんて、何年ぶりだろう。粒が細かい砂が指の間をさらさらと抜けて、10歩先の湖では水飛沫がキラキラと反射していてとても涼しそうで。 夕方5時頃、しばらく日光浴を楽しんだあと、水温が低くならないうちに泳いでみようよと湖に向かった。水は冷たかったけどめちゃくちゃ気持ち良くて、でもあっという間に足の届かない場所まで来てしまって、ビビリな私は岸の方でプカプカと浮かんでた。背中を水面につけて、空を見ながらただ漂うだけだったけど、自粛期間も少し明けたところ、いいリフレッシュが出来た。 多分20分くらいはプカプカ浮いていたと思う。体が冷えたところで再び砂浜に戻って、ただ横になってぼんやりする。紛れもなくバケーション、小学生の夏休みのようなひと時だった。 特にオチがないただの日記だけど、こんな感じで何も考えずに日帰り旅をしたことが嬉くて。 夏の時期にベルリンに来ることがあるなら、是非湖にピクニックもプランに入れて欲しい。日本の家族が来た時には、是非連れて行ってあげたいと思った。

”ぶつかり合う”と”こだわり合う”

人生で、どれほど本気の人間と出会ってきただろう。というか、本気でぶつかり合いたいと思える人間と出会えることが、人生で一体何回あるだろう。 過去、私に対して本気でぶつかってきてくれた人は数少ない。これまで自分のことを大事に出来ず、今思うと、その人達は私以上に私のことを想い、どこへ飛んでいくかわからない風船みたいで心配で堪らなかったんだと気付く。血の繋がりのない赤の他人に対してここまで本気でぶつかってきてくれる人は、限られた時間の中でそうそう出会えるものではない。 ぶつかり合うとは、結局は相手をどれほど信じているかということ。 ”ぶつける”と”ぶつかり合う”という意味が混在しているうちは、なかなか人とのコミュニケーションも難しく考えてしまいがちだ。感情に任せ、ただただ破壊的にぶつかることは簡単でも、それでは相手との関係を築くことは出来ない。その場ですぐに結果が出ない場合が分かっていても、流動的にものごとをポジティブに捉えることが出来、相手とのこれからを見ていきたいと願うのであれば、建設的にぶつかることが出来るだろう。 これらは、私にとって一番避けてきたことであり、人とぶつかり合うなんて怖くて出来ないと思ってしまう性格だ。 では、言葉を変えて”こだわり合う”だとどうだろう。 ぶつかり合うよりは、こだわり合うと捉えた方が随分と気が楽になった。関係を一度も壊さずに大切にできれば一番いい事なんだけど、一度壊れたものを修繕したり、強化したりするほうが、愛着を持てたり、長く愛したいと思える気がする。相手の気持ちを尊重すると同時に、自分の気持ちを尊重できることが大切で、私はもっと保身に走らず、在りたい生き方に近づけるようになりたい。 相手に対してエネルギーを注ぐことはとてもパワーのいることで、本当は面倒だし疲れること。だいたい恐れているものは、自分の思い込みだったということが多い。ただ一方通行で相手だけがエネルギーを消耗してしまうような力関係にならないように、私はもっと自立しないといけないね。相手と本気でぶつかることが出来たなら、きっとそれは自分にとっての自信に繋がるはず。

心と思考

テーブルの前にノートとペンを広げて、窓越しに揺れる緑を見ながら文を書く時間が好きだ。今朝は外が曇っていて暗かった。まるで寒い冬に逆戻りしたみたいで、ロウソクの火も心なしかいつもより赤く見えた。 職業柄なかなか難しい部分もあるけど、最近iPhoneやPC等のデジタル機器から少しだけ距離を取る生活にしたところ、すこぶる調子が良くなった。まるで美術館のロッカーに荷物を全て預けるように。こうすることで初めて自分の為の自由な時間を手に入れる事が出来るので、本来自分が持っている想像力や表現を信じてあげるために時には必要なことでもあるように思う。 「今、私は何を感じているのか」。1秒1秒、溶けて色薄らいでいく感情を忘れないように、ことばを綴る。人は、一番向き合いたくないと思うことに自分の使命が詰まっている。また同じような痛みを経験してしまわないよう、感情ひとつひとつに目を向ける。意識のひとつひとつに目を向ける。 私は、私と離れる為ではなく、もっと、もっと近づきたい。そうすれば、きっと大切な人との心の距離ももっと近くなると信じている。 自然の声を聞いてみよう。静かなまま、木葉が揺れて、水が流れることはない。感情も同じ。心の声を聞いてみよう。

Raum – 余白と”余韻”に人は何を想うのか – 第二弾:後編(インタビュー後日談/考察)

5月29日金曜日、ベルリン在住アーティストの菅原圭輔による11分間のアート映像作品「Raum」のオンライン上映会が行われ、本日、彼のウェブサイトより一般公開された。 【外部リンク】Keisuke Sugawara Web 前回、第一弾として「Raum」について幾つかテーマを抜粋したプロローグを執筆させてもらった。 【外部リンク】Raum – 余白と”余韻”に人は何を想うのか – 第一弾:前編(プロローグ) 今回第二弾ということで、本作上映後、特典映像として携わった時のアフタートーク全文と、本編についてのレビュー&考察について話していきたい。 まずは、菅原圭輔とのアフタートークの様子を紹介。 Raum in Conversation Keisuke Sugawara × MOLS ー まず、「Raum」という名前の由来とは? Keisuke : 「Raum」はドイツ語で「部屋(room)」という意味で、閉ざされた空間やスペースを人の心の中とイメージして制作したんだけど、なんかその限られた空間の中にいる一人の人物にフォーカスをあてたくて。だからこの題材でフィルムを制作しようとした時に、自然とこの名前が浮かんだんだよね。英語でも日本語でもなく、ドイツ語の響きや表現がぴったりだと思ったからかな。 ー Keisukeが作品を作るうえで、どのような場面からインスピレーションを受け、それをどのようにして作品に落とし込む? Keisuke : 割と自分の体験に基づいて印象に残っている風景や経験が沢山自分の中に残っていて、一つの作品を作るときに、その引き出しの中から摘んでイマジネーションを膨らましていったり、その物事から派生する物語と結びつけたりするかな。 例えば今回の作品でいうと、真っ白な部屋という風景と、一人の女性が椅子に座っている風景を頭の中でイメージを結びつけたりして、時にその情景に近い記憶をコラージュしながら作り上げていったな。ぼんやりある風景に対して、なんかこの小説の雰囲気が僕が見たあの風景と似てるとか、この音楽が頭の中にあるイメージにぴったりとはまるとか。元は多分その輪郭がぼやけたイメージや感情とかからインスピレーションを膨らましているね。 ー 本作のキャスティングについて、神嶋 里花さんを主演として迎えた理由は?また、普段作品を作るうえで人選に拘りはある? 今回に関してで言えば、作品の登場人物に対して既に自分の中でイメージがあって、表情や話し方、彼女自身が持つオーラが作風とマッチした、ということが一番の決めてだったよ。彼女からは、少しあどけなさも感じられつつ大人の女性のような魅力も感じられて、理想通りの女優さんが見つかったと思った。 なんか、僕は人の”目”が凄い好きで、ちょっ話が逸れると、ベルリン・アレキサンダープラッツ駅付近にある「ALEXA」に、眼球の写真を撮ってくれる場所があるのは知ってる? ー そんなサービスがあるの?! それは個人的にも知りたい… そうそう、本当に眼球だけを撮影するんだよ。しかもA1サイズくらいに引き伸ばして印刷してくれるらしい。それが凄く気になっててね。自分の目の写真が部屋に飾られているのは少し気持ち悪いなと思うけど(笑)。 人の目には沢山の情報があると思っていて人種によっても眼の色は様々。黒や茶色、それから青や緑。ここベルリンに住んでいると、様々な人種の人たちが暮らしているから、特徴のある目を見るとスーッと引き込まれるというか。今作の撮影の中で特に面白かったのは、主演の里花さんに目を閉じてもらって、開く瞬間に黒眼の部分が一瞬ピントを合わせる為に開くんだけど、その瞬間って肉眼ではなかなか確認できないし、カメラ越しでハッキリと見えた時は凄く引き込まれたな。 ー 映像作品を作るなかで「音楽」は密接な関係にあると思うけど、今回楽曲として選んだMakoto Sakamotoさんの「Yoin」を選んだ理由は? 2019年8月にMakoto Sakamotoさんの「Reflection」というアルバムがリリースされたという連絡があって、聴いてみたのがキッカケだったかな。全体を通して自分の好きなアンビエントでどこかドロッとした印象を感じて、アルバムを通して大好きで。その時から「Yoin」というタイトルが頭に残っていて、ピアノの音が反復されていく様や、序盤は静かに始まって、空間に溶け込んでいって、7分間の楽曲だけどその後もずーっとその場の空間を支配するというか。展開の少ないメロディーだけど、今作と凄くマッチするなと思えるような、運命的な出会いだったんだよね。 この作品には「ゆっくり、だけど確実にー」という一つのテーマがあって、作品説明にも載せてるんだけど、視覚的には淡々としなながらも、得体の知れない何かに動かされるような不穏さや違和感のようなものを感じたり、その”不穏さ”がこの楽曲と重なる部分を感じたかな。個人的には映像とあてはめた時にどちらも潰しあっていなくて、映像が楽曲のイメージを壊すことも無ければ、その逆も無く、絶妙なバランスでリンク出来たかなとは、編集を終えて通しで見た時にそう思ったな。あとは、単純にこの曲が好きだからかな(笑)。 ー 最後に、今後も映像作品を作っていきたい? 映像は今後も撮っていきたいなと思ってる。やっぱり舞台って空間が決まっているし、シーンを切り替えたくても「暗転」って言って照明を暗くして展開をもたせるくらいしか方法がないんだけど、映像って急に違う場面に飛んだり、時空を自由に操れるから面白いなと思うかな。 今後映像作品を作っていくという工程は、今まで自分がやってきた活動と離れていないなと感じるから続けていきたいなと思うし、あまりフィルムという部分だけに拘らず、映像作品は撮りたいな。もっと日常に寄り添った作品や、台本があって、今作よりも長いストーリーも撮っていきたい。その前に、ベルリンの街並みや風景を記録していきたいな。そういうミニアルなものは定期的にシリーズ化していって、「Raum」のようなストーリーのある作品も今後はチャレンジしていきたいと思っているよ。 ここからは、筆者による「Raum」のレビューと個人的な考察を話していきたい。 まず、全編を通して非常にシンプルでありながら、なぜ真っ白な部屋に一人女性が椅子に腰をかけているのか、一体誰に話しかけているのか、全貌が全く掴めないまま物語は進んでいく。 冒頭、彼女が話す会話の中で分かったことは、季節である。 彼女に対して「こんな朝には太陽があなたを祝福しているんだよ」と声をかける複数の人々。それに対して、彼女は少し微笑んだ後、冷めた様子で「あんな季節のあとには、みんな陽気になるみたい」と呟いた。”あんな季節”とは、冬のことだろうと、その時すぐに理解した。ドイツの冬は、街も人も暗く陰鬱な雰囲気で、空は全体的にグレー色。寒さは感覚を鋭くする。素足で踏み込む廊下の冷たさ、かじかむ指先や鼻先に意識を向けると、ドクドクと血が脈打つのを感じる。 春が「社交の芸術」ならば、冬は「孤独の芸術」と言えるだろう。冬になると感覚が冴え、他者との社交的な対話ではなく、自分の頭の中と対話がしたくなる。 監督の菅原も、そんなドイツの長く冷たい静かな冬が大好きで、また作中の彼女も「物思いに耽るのが好き」という発言からして、きっと冬が好きなのだろう。 […]

Raum – 余白と”余韻”に人は何を想うのか – 第一弾:前編(プロローグ)

4月、ベルリンで活動するアーティスト・菅原圭輔が初の演出・監督を勤めたショートフィルム「Raum」がようやく完成したと、本人から連絡があった。 1月、コンテンポラリーダンスを中心としたジャパンツアーを控えていた彼が、もう一つの大きなプロジェクトとして新たにショートフィルムを制作するという話は、2019年の時点から聞いていた。 Christina Dyekjærと一緒に主催する ”mellem to” プロジェクトで彼と出会って以降、彼の作品からは「生きるということ」そのものを問い、何度も反復して投げかけてくるほど強烈なメッセージを感じていた。何故なら彼自身、その意味の原型について深く知り尽くしていて、また、多くの人がその問いについてあまりに悲観的すぎることも知っているのであろう。 公開まであと三日、今回は二部構成にわたって、彼が手掛けた「Raum」について紹介・レビューしていきたい。第一弾は、「白い部屋」と主人公の「心理」にまつわるプロローグについて。 「Raum」という名前はドイツ語で「部屋」を意味し、作中に出てくる真っ白な部屋に、女性が一人椅子に腰掛けているシーンから始まる。彼女の身に纏うワンピースのセンスと対比して、瞳はどこかあどけなく、ちょうど少女と大人の間(はざま)にいるように感じた。 シンプルで飾り気のない退屈な部屋に腰掛ける彼女の表情はどこか不自然で、会話の中に出てくる街中の風景や人々に対してどこか冷めた印象だった。 作中、彼女は、淡々と目の前にいる”誰か”に最近あった出来事を話す。内容は至ってなんでもない日常のようにも感じるが、真っ白な部屋が、まるで彼女の世界から色というものを消し去ってしまったかのように見えた。 もし、世界から色が消えてしまったら。色の持つ感情への作用は強い。 朝、目が覚めた時に見る日差しが外で見るよりもずっと柔らかい琥珀色だということや、長い冬を終えたあとの新緑が、想像していたよりもうんとみずみずしい萌木色であることを教えてくれる。色というのは、ただ単に物質の特長を捉えるだけでなく、温度や触感までもイマジネーションさせる。 色を無くしてしまった時、私たちはただ、背後からゆっくりと忍び寄るなにかに怯え、昨日と今日を往来するだけの日々を過ごしてしまうのかもしれない。そう、彼女が話す風景の中には色彩が感じられなかった。 彼の舞台作品「mellem to」に同じく、今回の作品の登場人物に共通している心理課題はリフレクションにある。 リフレクションとは、簡単に言えば、ある経験をピックアップし客観的に経験を振り返ることを意味している。例えば、過去の失敗を振り返るときに、自分を責めたり他人のせいにしたりしていると、適切な学びを得ることができないように、冷静に客観性を持って振り返ってこそ、成長につなげることができる。リフレクションにおいて最も大切なことは、過去からの教訓を得て、次なる実践に活かすことだ。 ただ、作中の彼女にはそれがまだ明確に見えていないように思える。命(生)が有限であるという事実を知っていながらも、決して自身の思惑になぞらない出来事に、私たちは時として困惑し、無意識に思考と言動に矛盾した行動を取ることがあるのだ。 中盤に差し掛かり、だんだんと彼女の言動に違和感を感じ始めたとき、彼女が”あなた”と呼ぶ、花瓶を持った男性が登場する。彼女の思考と言動のちぐはぐが繊細で緊迫した空気を作り出し、事態はゆっくりと、でも着実に忍び寄ってくるー 今作で最も印象に残ったシーンは、クローズアップされた女性の瞳だった。 コンテンポラリーダンスを中心に劇場をメーンとしていた彼にとって、これまでは舞台全体の構図を熟知し、演者の躍動と観客のリアクションでその場のグルーヴ感を創り上げることが重要になっていたものが、今回は決められた画角の中でどのようにして躍動を伝えればいいのかを考えるのが楽しかったと言う。 主人公の言動とは裏腹に、うつろぐ眼や落ち着きのない手元をカットに取り入れることによって、彼女の奥深い過去と観客の深層心理を抉る不穏な空気感がそこには生まれていた。 また、今作で重要なエッセンスとなった音楽について、サウンドアーティスト・坂本真の楽曲「Yoin」が、作品と絶妙にリンクしていた。ショートフィルムの楽曲の多くは、風景の変化や物語の進行に合わせて曲調が変化することで躍動を与えるが、この楽曲は、目の前で起こる容赦ない出来事を抑揚ではなく僅かに針が振れる程度で変化をもたらしている。映像と音楽は、非常に重要で密接な関係にあるということを改めて認識させられた瞬間だった。「Yoin」が収録されている彼のアルバム「Reflection」については、以前考察レビューをアップしているので、そちらも是非チェックしてほしい。 【外部リンク】MAKOTO SAKAMOTO – Reflection 考察 【外部リンク】Keisuke Sugawara Website(画像をクリック) 「余白と”余韻”に人は何を想うのか。」このメッセージは、彼が創り出す全ての作品において、永遠のテーマでもあるように思う。 全編については、2日後の5月29日(金)に公開される彼のホームページから是非チェックしてほしい。 第二弾は「Raum」公開後に更新予定!! 菅原圭輔が初の演出・監督を勤めた本作は、キャストに神嶋里花、音楽に Makoto Sakamotoをむかえ、ある女性のモノローグ、その目線の先に見ているものに焦点を当てた11分間の短編アート作品である。 余白と”余韻”に人は何を想うのか。 *本ストリーミングは本編と特典映像を合わせた限定公開。 —————————————— タイトル:Raumキャスト:Rika Kashima http://www.anore.co.jp/rika_kashima/ Keisuke Sugawara https://www.keisuke-sugawara.com/ スタッフ:演出・監督 – Keisuke Sugawara助監督・編集 – Miho Yajima撮影 – 平野 […]

コロナの代償

コロナウイルスによる自粛期間の間に右耳のピアスの穴が完全に閉じてしまったので、通販でニードルを購入。すっかり身綺麗にすることを怠ってしまった代償だ。また、4月に控えていたビザ更新に関しても未だ外人局からの連絡を待っている状態のため、なんだか気持ちは宙ぶらりん、といった感じ。 歩みが遅いながらも、この期間中でYouTubeチャンネル、ラジオ番組の開設、またMOLS.incとして紙媒体のみでなく、ウェブにも力を入れようとドメイン開設をしたり、なんとか形になったようにも感じる。また、東京でライブストリーミングを定期的に開催している映像関係の友人と、同時刻でライブ配信が出来るコンテンツを計画中。また、個人的に映像制作の依頼も頂いたり、文筆ではなく、最近は裏方の仕事が多くなってきている。改めて、文章は毎日書き続けないと力がついてこないと実感したので、また、自分でアーティストにアポイントメントを取っていかなければなと思う。 最近はDark Jazzがお気に入り。たまに自分が制作した映像と合わせて聴くのが楽しい。

between dream and reality

ドイツ政府は本日4月20日以降から、ブティック等の一部専門店や、小・中規模の商店の営業再開を認めた。その中で、5月3日まで3人以上の集会などを禁止、大規模イベントや音楽フェスなどの開催は8月末まで禁止するという、ベルリンに住む人々にとって、以前の生活に戻るには未だなお遠い状況とも言えるだろう。 4月19日の街の様子は、ジョギングや日光浴で心身のリラックスをする人たちや、家族や親しい友人と散歩をする姿をよく見かけるようになり、3月下旬の頃の緊迫した雰囲気と比べ、街ゆく人の表情も緩やかで、私自身、ようやく春の訪れを感じられるようになった。 さて、前回のブログでは、3月22日(日)にライブストリーミング配信を行った際の映像を公開したが、今回は、初めて自主制作した25分にも及ぶモノクロ映像を更新・紹介したいと思う。 映像を制作するにあたって、私がまず一番始めに取り掛かった作業は「自分自身を許すこと」だった。私は、ものを作るということにずっと躊躇いがあった。その一つの理由として、自分が思い描くものを形にする過程で、頭の中で創造する理想と、今の自分が実際に表現することが出来るもののクオリティー(現実)のギャップに直面するのが怖く、心底避けていたからだ。己の今の力を知るということは、時に酷く、真実を突きつけられる。その事実をどう受け入れ、いかにその恐怖と向き合うかが一番過酷なのだ。アーティストとして活躍する人たちは、日々自分との戦いなんだと思うと、何度も言うが、本当に頭が上がらない。 私は、昔の塚本晋也や石井岳龍、デヴィッド・リンチようなコントラスト比の強い、いわゆるパニック映画やパンク・カルト映画が好きで、また、ラース・フォントリアーのように、今やセンシティブなテーマを扱う非道徳な映画や、アンドレイ・タルコフスキーのような哲学的な美しさを感じられる映画が好きだ。ラース・フォントリアー監督を除くこれらの監督作品の初期作品はモノクロ映画から始まり、モノクロの映像は、時代の概念を越え、黒のコントラストが幾重にもレイヤーとなって、見る人の心理を深層へと導くのだと、勝手ながら感じるのであった。文明が栄え、8Kの映像が世間で話題になった今でも、私はアナログで粒子の荒れた荒々しい映像に、今もなお高揚感を掻き立てられるのだ。 私の中で、現実の世界と夢の世界の境界線は非常に曖昧なものだった。そんな中で、私が実際に見たものをどうやって映像に残そうかと考えた時、それは色のある世界ではなく、モノクロの世界だった。映像の核心や解説はするつもりはないが、一言伝えられるのであれば、私自身の中でこの映像は全て”事実”に基づいて制作したということだ。 今回、映像にインプロヴィゼーション(即興)で音をつけてくださったのは、サウンドアーティストとして活躍するMAKOTO SAKAMOTOさん。私の荒い映像が、見違えるほどに格好良くなり、また、レアな環境で一緒に制作出来たことを嬉しく思います。そもそもは、Keisuke Sugawaraさんとの3人での共同制作で、彼が映像と音に合わせて、これもまた即興で演じているので、出来れば「MOLS live streaming vool.1」の当日の配信動画の様子も是非ご覧いただきたい。 本当に、ありがとうございました。 映像の音源に関しては、MOLS magazineのSoundCloudページにて公開されておりますので、こちらも是非チェックしてほしいです。 実はこのライブ配信を行うにあたって、PreSonus STUDO ONEというオーディオインターフェースを手に入れた。今現在は、過去に録り溜めしていたフィールド音源を遊びではありますがミキシングしている最中です。完成次第、そちらは別のアカウントで更新予定なので、また時期がきたらご報告させていただきたいです…。  

MOLS Live Streaming Vol.1 公演を終えて

  2月から3月にかけての約一ヶ月、いや、体感速度ではもっと短い期間の中で、世界の状況は全く変わってしまいました。初め、ドイツ政府の新型コロナウイルスへの認知は、2月までは感染経路もはっきりしており、あくまでも「外から来たウイルス」のイメージが強かったのですが、3月に入り、連日報道されるニュースでは「もう、すぐそこまで近づいている」という焦燥感へと変わっていった気がします。 4月となった今もなお自粛期間は続いていますが、現在ドイツにけるコロナウイルスによる新規の感染者数は、最悪期の3分の1以下の2千人程度まで減ったようで、アパレルなどの専門店を対象に、少しずつ営業を再開するところも出てくるようです。 現在のベルリンの街を見渡すと、イタリアやフランスの外出禁止令に比べると緩やかで、人々は落ち着いて健康でいることを一番に考えているように見えます。 自主企画「MOLS」は、ベルリンに滞在するなかで初めてのチャレンジでした。 イベントを進行していく中、コロナウイルスによる世界的なパンデミックが発生し、私は幾度となくこのまま進むのか、それとも止めるのかの選択を迫られることになりました。開催日の1週間前、ドイツ政府から第一段階の自粛要請が発令され、街のレストランやカフェは営業時間を短縮しながら、国民たちに対して、徐々に社会的距離を取ることを勧めました。 政府による冷静かつ断固たる姿勢を目の当たりにした中で、「やらない」「延期する」という選択を選ぶことも出来ましたが、自分の中で逆に今ある環境で出来ることを試してみたいと思い、私は、無観客の状態でライブストリーミング配信をする方向で舵を切りました。 当時は共演したMAKOTOさん、Keisukeさんと連日コミュニケーションを取りながら、自分の中でどのようなアクションが一番良いのか、考えて、考えて、電車を乗り過ごす日々も少なくなく、今思えば、テンパっていたんだろうなと感じます。 当日の様子は今でも覚えています。 共演者の2人よりも早く到着した私は、街の静観とした風景に、未だ信じられない状態でした。ただドイツは、この危機的状況に対して永遠の権力を追求したり、他者に責任を転嫁することのなく、その逞しい姿勢に改めて気付かされることも多かったです。 撮影地として利用させていただいた「Club der polnischen Versager」では、一人で機材のリハーサルをしいていた時、スタッフUrszulaさんにとても親切にしていただきました。封鎖された街のなか、閉め切った店内で彼女と2人きり、時にプライベートなコミュニケーションを取っている時間が何よりの癒しでした。 当日は、共演いただいた2人や周りの方々のお陰もあり、沢山の方からコメントやメッセージを頂くことが出来ました。 結果として、MOLS Live Streaming Vol.1を実行したことは、私が今後動き出すために必要なアクションや計画性、自分の在り方を学ぶキッカケになったと思っています。また、こんな状況下でも、作品を生み出すということに対して日々向き合っているMAKOTOさん、Keisukeさんの姿勢を見て、心からアーティストとして生きる人を尊敬しました。 ということで、当日のライブストリーミングの様子を見やすく編集したものをアーカイヴとしてYouTubeに公開致しましたので、是非見てください! 現在はIGTVでも公開できるように只今準備中ですので、またシェアさせていただきます。 「note」でも公開しておりますので、そちらもチェックよろしくお願いいたします。 https://note.com/ari_matsuoka/n/n2608874b771e  

髪を縛る

髪を縛る時は気合を入れる時。短い髪をまとめて、少し痛いと感じるくらいまで縛る。昔からそうだった、私の中の気合を入れる時のルーチン。髪が短くても、縛る。試合前の精神統一や覚悟に似た感覚。来るべく時にタイミングはやってくるし、辛い時だからこそ、信念を持って、その壁の先にある道に進むための秘めた力強さを持っている自分を信じたい。女らしさとか男らしさとか、そんなことよりも自分らしさを追い求めていたい。困難な時こそ、まっすぐ正直で、全力で生きたい。自分の優しい部分、純粋な部分、全部守って、活かしてあげたい。 そろそろプロフィール画像も古くなってきたな。

感情のリフレクション

最近始めたことがあるんです。題して「感情のリフレクション」というんですけど、自分自身と向き合うために、一日一回30分、自分の感情や気持ちと向き合う時間を作りました。 というのも、私は今まで自分の感情を押し殺して生きてきました。自分では自覚が無く、この歳まで自分自身の感情に蓋をしたまま、開け方が分からなくなった古瓶のように、自分の気持ちが一体どこに向いているのか、対人に対して誠実に、本音で話すということがどういうことなのかさえ分からないまま、凄く悩んでいました。 幾つか例を挙げて言えば、素直に思っている感情を表現できない。本音を言いたいのに、相手を目の前にして、声が出なくなってしまったり、吃ってしまう。ディスカッションをしていて、本音でぶつかりあわないといけない場面で萎縮してしまい、相手の顔色や動向を伺うあまり人と深く関わることが出来ない、といった悩みが今もあります。 何人かから「そういうところも長所なんじゃない?」と言われることもありましたが、なんだか附に落ちず。ああ、私は変わりたいんだな、正直に自分と向き合いたいんだなと思い、このリハビリを始めました。 方法は以下の通りです。 1. What do I feel? What’s on my mind? 自分が今何を感じているか、どのような感情が心の中にあるのか、感じて書き出す。 2. What affected me the most? どのような事象が今感じている感情を生み出したのか探り、その事象が自分にとってどのような経験だったのか振り返り、書き出す。 3. What did I learn about myself? その特定の事象が自分に与えた感情を理解することで、自分がどのような性格・特徴のある人間なのか、自分自身についての学びを書き出す。 4. What did I learn about others? その特定の事象が他人の行動に与えた影響を振り返り、他人についての学びを書き出す。 5. How will I apply this learning to my life? この自分と他人についての学びを、今後の人生にどう生かしていくのか、具体的な方法を書き出す。 2019年10月、ロンドンへ旅行に出かけた時に見かけた雑貨屋さんで、「自問自答カード」というものが売っていて、興味はあったものの、その時は買わずにその店を出たのですが、ここ最近になって「もしかして今の自分に一番必要なものなんじゃないか? 」と意識するようになりました。 実際に自分が感じた感情に、真剣に向き合ってみる。こんな時間、他の人には必要のない、至って自然に出来ることかもしれませんが、私にとっては本当に歩行器から自立する幼児のような感覚に近いのです。 実践したものを例に挙げると、前回の「感情のリフレクション」はこうでした。 1. What […]

歪(いびつ)なもの

もうすぐ4月になろうとしているのに、息が白くなるほどの外気の冷たさに、思わず仕舞いかけていたお気に入りのマフラーを取り出した。今日は曇りのち雨。天気予報を確認したにも関わらず、決まって折り畳み傘を忘れて外出してしまった。そんな時、いつも「まあ、いっか」とずぼらな性格は、昔から治らない。 すっかり見慣れたベルリンの街、一定間隔の距離を開けながら目の前を歩く人と歩幅を合わせる。足並みが揃ったところで、つい頭の中でTHE BEATLES「Abbey Road」のジャケット写真を思い出す。まるで、先頭を颯爽と歩くジョン・レノンの後をついていくリンゴ・スターのようで、思わずカメラを取り出し、後ろ姿を1枚頂戴した。 人通りのない街の中をイヤホンをしながら歩くのが好きだ。今日はTom Waitsのアルバム「Closing Time」を聴きながら、すれ違う人もまた、イヤホンを着けているのを見かけて、その人が今何を感じてこの瞬間を生きているのかを少しだけ想像してみたりする。 14時過ぎ、友人宅でコーヒーを飲みながら窓の外を覗くと、まるで春に舞うポプラの綿毛のような大きな雪の粒が舞っていた。思わずベランダの外に出て大きく身を乗り出して空を見上げる。冷たい、というよりふわふわと肌に馴染んで気持ちが良かった。腕を虫取り網のように大きく横に振って、綿毛のような雪を捕まえる。服の裾にどんどんと積もってゆく様子が楽しくて、無我夢中ではしゃぐ私を見て、友人が部屋からタオルを持ってきてくれて、しょうがないなと、笑いながら私の頭に積もった雪を拭った。 ベランダから下を覗くと、自転車で走るおじさんの服の前だけ、雪がびっしりと積もっていて、リバーシブルになっていた。その光景に笑顔になっている通行人の姿を見て、なんだか泣きそうになった。今この瞬間全てが愛おしくてたまらなくて、全然寒くなかった。 私はなんでもすぐに感情的になってしまう。マイナスに働くことも沢山あるし、生きているうちで損することだって沢山ある。この性格で生きづらさを感じることも数えきれない程ある。ただ、人よりも感情の振り幅が大きいということは、幸せだと感じた時の振り幅も二倍だということを理解すると、「これが私らしさなんだな」と思える。 今日見たベランダからの雪は、今まで見た雪とは全然違った。歪な形をしていて、服に張り付いた結晶は潰れてすぐに水に変わってしまってずぶ濡れになった。でも私にとっては、今まで見た雪の中でもとりわけ美しかった。歪な形というのは”自然の形”なんだ。歪というのは”素朴”なんだ。降り注ぐ雪と自身を照らしわせて、ありのままでいることはどんなに着飾ったものよりも美しいことなんだと私に教えてくれているかのようだった。 結局、たった一時間で雪は止んでしまい、ベルリンの街に雪が積もることはなかったけれど、今日一日を名一杯感じて生きることが出来た私を誉めてあげたいと思った。一日一日、その瞬間に感じたことを大切に、目一杯生きる。

文を書くこと、映像を撮ること

Screamin’ Jay Hawkins「I Put a Spell On You」を聴きながら、誰も見ていない部屋で一人、無表情のまま踊る。ここ最近の私は、いつにいなくフリーダムだ。 Jim Jarmuschを介してScreamin’ Jay Hawkinsの存在を知ったという人は多いだろう。私もそのひとりで、20代の頃、レンタルショップで何気なくDVDを借り、初めて「STRANGER THAN PARADISE」を観たときの衝撃はいまだ忘れられない。音楽を愛する人なら誰にでも、その後の人生の方向性を決定づけるような衝撃的音楽体験というものがいくつかあると思う。私の人生のワンシーンの中で「I Put A Spell On You」との出会いは、少し多げさにも感じるが、まさにそういうものだった。 どうもこの曲の意味を探ると、女に捨てられた男の”恨み節”だそうだが、その音楽をアメリカに来た異邦人であるエヴァが、テーマソングかのように部屋でかけ流しながら無表情で踊っている姿がなんだかストレンジャーで記憶に深く残っている。作中のアメリカの風景も、白黒映画にするとそこがヨーロッパの街並みに見えてしまう不思議な感覚もまた新鮮だった。 ヨーロッパ、特にドイツの風景は白と黒が似合う。そんな自身の思いもありながら、最近は簡単だけど白黒で映像を撮ってみたり、この期間を使ってやりたいことをやっている気がする。 何かを表現したり、自分が持っている感情を形にすることは本当に難しい。いや、正確にいえば、思い描くものを形にする過程で、自分が思い描く理想と、今の自分が全力を出して表現するもののクオリティー(現実)のギャップに直面し、荒くて青い、ただのオナニーのような吐き出し物を本当に他の人の前に曝け出せるのか、というところで手が、足が、思考が止まる。 アーティストとして活動している人たちにとって、日々、いかに「今この時の、ありのままの自分を受け入れ、表現できるか」という場面で戦っている。私は文章を書く人間として、先日、初めて人に自分が’作った”ありのままの映像”を公開し、その時点でひゃ〜となっている芋野郎だ。作品を生み出すということは、生半可な気持ちでは出来ない。自分の感情に正直に生きるということは、それ相当の覚悟がいるだろう…。そう思っている私にとって、心からアーティストとして生きている人たちを尊敬した。ただそれと同時に、自分も表現者(文筆)として、映像作品を作るという違った形で新しい経験が出来たことは、今後アーティストの方へ取材する上でとてもいい気付きになった。だから、今後も映像は撮り続けたい。もっとブラッシュアップできるように、ゆっくり、ゆっくり深めていきたい。 文を書くこと、映像を撮ること、表現方法は違えど同じこと。 自分の為にやってきたことが、いつか周りの為になることを願いたい。

冬が終わろうとしている

先日、ふと夜中4時過ぎに目が覚めた。 いつもと違った、少し荒々しい風の音が窓ガラスを揺する音を聞いて「ベルリンで過ごした冬がもう直ぐ終わろうとしている」と思うと、途端に寂しくなって胸が締め付けられそうになった。 この部屋で何時間も将来について考えたり、数え切れないくらい泣いた暗く長い冬が、辛くもあったけど同時にとても愛おしい時間だったんだなと気付く。それからは、まるで最愛の人との時間を一気に取り戻すかのように、意識的に夜一人で散歩をすることが増えた。思考が巡り、悩んでも答えが出ない、そんな苦しい夜が何日続いても、ベルリンで過ごした初めての冬を忘れたくはない。 きっと私の中で、最も美しく、酷い冬だった。 ベルリンの寒さは、人や風景の感情を露わにする。目を背けていた過去と正面から向き合わざるを得ず、素肌を冷えたナイフでなぞられるような恐怖を感じることもあれば、今まで以上に人の温かさに触れ、友人が作ったケーキを食べながら、もっと一緒にいたいなと恥ずかしげもなく言えたりすることだってある。 寒ければ寒いほど、人は人で暖を取ろうと寄り添う。そんな冬が、心から愛おしい。だから、終わってしまう冬を目の前に、寂しいとは言わずに、ただシンプルに愛と敬意を持って送り出したい。いつも凄い不器用だなと思うけど、自分らしく、そう思った。 少しずつ、街を歩く人たちの服装が軽装になっていくのを横目に、私も春を迎え入れる準備をしなければいけないね。  

静と動のメドレー

師走は名前通り毎年忙しなく駆け抜けていくので、息つく間もなく年末を迎える。 今年はベルリンで年越しを迎える貴重な機会だ。ドイツ人が大好きなハッピークリスマスを過ぎたあたりから、街はまるで国境を越えたかのように、時折爆竹や花火の爆発音が鳴り、物騒な雰囲気が漂う。今年は新参者ということでその爆発音を体験してみようと思い、夜は毎年”激しい”と話題のクロイツベルク地区周辺へ撮影しにいこうと思う。今年から警察の規制が激しくなったと噂に聞くが、実態はどうなんだろうか。 さて、今年の締めくくりとして「2019年はどんな年だったか」と聞かれたら、間違いなく「寒中水泳と禅のメドレー競技を交互に繰り返している修行僧のようだった」と答えるかもしれない。これは実践したという話ではなく、あくまで例え話になるということと、”修業”とは違い精神を鍛える年だったという面でも、ここでは”修行”と使い分けたいと思う。 自分にとっては荒い行動だったが、「付き合う友人を変える」「居場所を変える」ことで、破壊的ではあるが変化を取り入れることが出来るのではないかと思った私は、ベルリンに移住することを決意した。実際、身体に直接的にショックを与えることで強靱なメンタルが得られたように感じる。 今までの自分ではあり得ないほどのスピードで変化しているので、本音を言えば、歯の1本や2本は折れている感覚に近い。だけど人間っていうものはいやはや順応的で、歯が折れてもいずれは止血するし、折れたあとの方がもっと歯を大事にしようと歯科へ定期的なメンテナンスに通おうと意識が変化するのである。 これが「寒中水泳と禅」に例えるとどうだろう。見るからに辛そうだし、初めから気持ちがいいわけはないし、どれほどイメージトレーニングをしていても、その心構えを遥かに上回る程、全身に突き刺さる痛みと寒さと動脈が収縮する(ここ息継ぎなしで口に出して欲しい)感覚に、初めは長く耐えられないだろう。私にとって、海外で暮らし、あらゆる変化に柔軟に対応する行為は、自分の体力(メンタルの強さ)を知ることにも繋がった。既にベルリンに生活し、冷水に慣れた様子で泳いでいる人々の姿を見て「気持ちよさそう」と一言、私は冷水に裸一貫で飛び込んだのだ。 結果、風邪をひいた。でも死ななかった。そう、人間は順応的なのだ。 そして寒中水泳でなんとかバタ足で50m泳ぎ切ったその先で、ベルリンスタイルに身を包んだ僧侶が警策(棒)を持って待ち構えていた。息を切らした状態で全裸で正座し、自分の心を洗い流し、不要なものを捨てる修行へと切り替わる。非常に忙しない心情のなかで、自分自身を見つめ、自我の開放を目指す。30分間、膝の痺れと震える寒さに耐え、時に警策で喝を入れられながらまた冷水の中に飛び込むのだ。 ただこのメドレー競技は拷問ではない。このメドレーには沢山の指導者がいて、寒中水泳の後には身体を摩ってくれる人がいて、冷水に浸かることで脂肪燃焼や心臓病の予防にもつながることを教えてくれた。座禅でも、ただ叩くのではなく、励ましの意味を込めて道を誤らないように方向を正してくれる僧侶を身近に持ったことがとてもラッキーだった。 この”静と動のメドレー”のお陰で、今まで近づくことの出来なかったジャンルの人たちと話すことが出来たり、SHIFTmagazineに寄稿させていただいたり、Kana MiyazawaさんとBerlin Atonal 2019の取材に同行させてもらえたり、MAKOTO SAKAMOTOさんのアルバム”reflection”について初めてライナーノーツを書かせてもらたり、ベルリンのライブハウスでイベントに出る機会を頂けたりしたんだと思う。 このように、自ら体感することが何よりの知恵だということも理解できたが、潰れてしまわないように傍で見守っていてくれる人たちに支えられた1年間だった。関係ないけど、正拳突きも簡単ではあるが習った。今後、私はもっと強くなるに違いない。 自分が書く文章について、実際に媒体を通して書いたものよりもこのブログに書いてある文章が面白いと評価してくれる人が現れたり、もう少し自分の得意な部分を活かせたらなと思う。「文筆家は自己規制してはならない」「常に頭の中を無政府状態にしておかなければならない」。この言葉は、誰にでも当てはまる訳ではないが、少なからず今の私にはとても核心に触れる言葉だった。その為には周りの情勢や歴史についてもっと学ぶ必要があると思うし、誰も考えもしなかった言葉を纏い、表現できるほどの経験が必要だなと思った。 去年の自分なら理解できなかっただろう「自身の奥にある暗くて深い闇の部分を受け入れつつ、正のパワーやオーラに変えてどう表現できるのか」が1つの大きな課題でもあるなあ。その為にも、2020年もまだまだ寒中水泳と禅のメドレーを続けつつ、魂の解放を続けていくことになるだと思う。

食欲と音楽の関係 〜Restaurant Yuumiにて〜

昨日は、オープン直前の隠れ家創作レストラン「Restaurant Yuumi」でコース料理を味わうという贅沢な体験をしたので、その余韻を引きずったまま記録している。 Nöldnerplatz駅から徒歩5分の場所に、まだ看板の灯りも無くひっそりと佇むレストラン。広く間隔をとった客席、その奥に4人掛けのカウンターが見え、店主のYutaさんと奥様のMichaelaさんが温かく出迎えてくださった。中に入ってすぐ横のハンガーラックに上着を預け、肌寒い外の空気とはうって変わり、ムーディーな音楽と温もりのある木材を基調としたインテリアに、私はすっかりと顔が火照ってしまい、席に掛けたあともしばらくはどきどきして落ち着きがなかった。 メニューは全てその日に買い付けた食材や旬の食物を使用しているらしく、体が喜ぶようなおしながきが各席の前に添えられていた。完全予約制のコンセプチュアルなレストランなので、毎日のメニューはその日来店されるお客様のご要望や体質に合わせてフレキシブルに変えていくそう。今回はそれぞれ職業分野の違った4人が集まっていい料理・いいワインを味わおうということで、始めにドイツの赤ワイン「Markus Schneider Ursprung」で乾杯をした。 カウンターに横並びで座ると、目の前に枠組みされたキッチンから料理が出来上がっていく過程が見えるようになっている。調理されてゆく食材を眺めながら、4人で自然と愛について質疑応答が始まっていた。普段このような話は恥ずかしくて苦手な私でも、何故だか今日は友人の恋愛話が聞いてみたくなり、自分も自然と話題に出した事に驚きつつ、いや、この雰囲気がそうさせるのだと感じた。空間にマッチするかのように、この夜は理想の愛について話してみたくなったのかもしれない。 奥様がコースメニューについて丁寧に説明してくださった後、美しい器に盛り付けられた料理をゆっくりと味わいながら、より深い話に進展していく。 なにより、これだけ深い話が出来る理由は4人の関係性以上に「食欲」と「BGM(音楽)」が密接に関係している気がした。 ある研究では、食事中の音楽によって食欲がコントロールされるという結果が出ている。事実、優雅な音楽やTPOに合わせたBGMは目の前の食材をより豊かで愛に満ちた一品に変化させる。店内の音楽はジャズがメインとなり、エラ・フィッツジェラルドやカウント・ベイシー・オーケストラ、ジュリー・ロンドンなどが流れ、まるでそこがベルリンだということを忘れてしまうほど。 私はロマンチックな演出にめっぽう弱い。美味しい食事と愛を謳った音楽があれば、一瞬で恋に落ちてしまうかもしれない。そういった意味でこのレストランは、これから数多くの愛が生まれる場所になるのだろう。そう思いながら、ま新しい食器やグラス、大きな木目のテーブルに目をやり、誰かの幸せそうな顔を思い浮かべた。 料理や流れる音楽に合わせて、会話の流れも流動的に変化していくことが楽しくて、私はただ周りの空気を思いっきり吸い込んで五感で「贅沢な時間」を味わった。 店主と奥様の人柄を見て、どれほどこのお店が愛情込めて作られたものなのかは一目でわかる。 愛情を受けて育ったお店には、愛情を持ったお客様で溢れかえるに違いないよなぁ。 食欲が満たされたと同時に心も満たされ、自然と周りの人へ感謝をしたくなる、そんな場所。全ての料理が終わった頃にはすっかり4人ともYutaさんの魅力にハマってしまい、Yutaさんが奥様に照れながら「見た目には自信はないけど、ハートは誰よりも熱いから」と話していた姿が忘れられない。 帰り道、先ほどの幸せだった余韻に浸りながら、駅に向かう時間でさえも愛おしく感じ、少し早いけど自分へのいいクリスマスプレゼントになったなと思った。 なんとなく、この気持ちを忘れたくないと思ったので、自分なりにこのレストランの雰囲気に合ったプレイリストを作ったので、これを聴きながら想像して欲しい。そして、来週末晴れてオープンするベルリンの新しいホットスポットに是非訪れて欲しい。 “Restaurant Yuumi” Berlin Nöldnerplatzにあるフレンチ×日本食の創作レストラン”Restairant Yuumi”のコース料理をイメージしたプレイリストです。 https://open.spotify.com/playlist/5UWTimPru5CesboMNvxef4?si=yH-KdPdkTtSdb-esSpWjGQ   Restaurant Yuumi Emanuelstr 1 10317 Berlin https://www.restaurantyuumi.com  

消えてなくなる

今年、私のなかの色んなものが消えていなくなった。 ここに来て、もう昔の私には戻れないステージまで来ているような気がする。 心配性で、常に背中に壁がある状態でないと落ち着かなかった私だったけど、ふと振り返れば、随分と遠くまで歩いてきたようで、背中にあった壁は取り壊されて跡形もなく無くなっていた。 誤って破損したものは修復できるけど、大きな衝撃で破壊されたものは二度と修復できない。昔テレビ「劇的ビフォーアフター」で、思い出の家の内装が容赦無く取り壊されて、家主がその光景を見て思わず泣いてしまうシーンを思い出し、今の私の心情が全くその通りだなということに気付いた。 別に無理矢理取り壊されたわけでもなく、自分から依頼したはずなのに、手放す行為に対して恐怖を感じる。お気に入りのブランケットを手放し一人でベットに向かう子供のような、自然と過去の習慣から卒業できるわけもなく、まあ大人はややこしく、面倒に育つものだ。 容赦無く破壊されていく様子にただただショックを受け、もう二度と戻らない光景に泣きじゃくった日々もそう長くは続かない。泣いた後は、隣人から「なんだ、そっちの方がいいじゃん」「昔の面影が消えて明るくなったよ」という言葉が貰え、初めは歪でも、心も体も自然と形状記憶するんだということを学んだ。今の気持ちは凄くスッキリしている。それと同時進行して、割とやること山積みな状況に苦笑いしながらも「とりあえず進みます!間違ったらごめんなさい!その都度教えてください!」と軽い気持ちで考えられるようになったような気がする。 人間には、時に必要のない美学がある。悪魔崇拝が流行らなくなった今、次に目指すステージは闇や影の部分を表に出さずにオーラやパワーに変えて光を放てるようになりたい。

mellem to – en mand,der sidder navnløs,en kvinde med en Lanterne –

その日、真っ暗と広がる空間の中で、ランタンの灯りだけがまるで空虚を照らす道標のように、 淋しくもあり美しく、ゆらゆらと幽玄な世界を映しだしていた。 9月にベルリンで出会ったKeisuke Sugawaraに誘っていただき、彼と今作のパートナーChristina Dyekjærの舞台「mellem to – en mand,der sidder navnløs,en kvinde med en Lanterne – 虚無の人。灯を持つ人。」の公演を観に行った。 “mellem to”は、彼の頭の中にある幻想や幻影、そして突然引き戻される現実世界が、作中断片的に盛り込まれているように感じる。時折、その幻想の間で、ふと自分の過去の記憶がフラッシュバックされる瞬間に息が浅くなり、魂が体から離れてしまうようなとてつもなく恐ろしい瞬間があったり、まるで”幽体離脱”をしているかのような体験だった。 記憶の中の景色や人々、自身の感覚や感情などに焦点を当てた彼の作品は、どこか、我々が潜在的に持っている生きることに対しての虚無感や焦燥感に一時的に訴えかけてくる作用がある。その比喩表現として、彼は「ランタン(陽)」と「椅子(陰)」を舞台のパフォーマンスとして使用しているのだろう。つまり、この作品は彼の自伝でもあり、虚無感に苛まれるということの根本を見つめ直す作業は、自身における生命(生きるということ)そのものを考える作業と同じなんじゃないか、と私は考えた。 一つ一つの所作に、漢字の書き方で例えるならば、「とめ」や「はね」がしっかりと振付の中に組み込まれており、雨の音が聞こえる中で、男(虚無の人)はびっしょりと水に濡れ、重く鉛のようになったガウンを羽織っているようだった。ただ、このずっしりと重みのある動作からは、その男の内にある生きることに対しての”問い”が垣間見え、その思い自体に困惑し、恐怖している姿にも見えた。 男の背後をまるで扇風機の先に取り付けたビニールのように舞う”意識(灯を持つ人)”は、規則性を持たず、無表情ではあったが基本的に明るくオープンで、物怖じもせず彼の周りを常に回っていた。序盤、男はその意識に嫌気を感じ離れようとするが、終盤に差し掛かるにつれ、「虚無の人。灯を持つ人。」という2つの魂はどちらも自分自身であると気付き、男は最終的にその意識を受け入れ、許し、共存する生き方を選択したようだった。 この”問い”こそが、彼の中に渦巻く「生に対しての虚無感や焦燥感」であり、人間誰しもが持っている過去の記憶やトラウマという重荷に対して、どう向き合い、共存していくべきかを考えさせられるような、非常に人間の深層心理へと潜り込んだ作品なのではないかと感じた。 ランタンの灯りとして例えられた”意識”は、男を導く道標となれば、不気味な火の玉のように彼の行手を塞いで邪魔をする時もある。それは簡単にいえば、古びた旅館の壁のシミが人間の顔のように見えなくもない…、そんな程度のものかもしれない。雨の日って憂鬱だよねという人もいれば、雨の囁く音に包まれている気がすると感じる人もいる。そうやって、人は全て「捉え方」によって生きることに対しての構えが変わってくるのだ。 見終わった後、正直、この男の物語がハッピーエンドで完結したとは思えなかったが、この男にとって、生への大きな気付きになった事には間違いないだろう。   21.09.2019 「mellem to – en mand,der sidder navnløs,en kvinde med en Lanterne – 虚無の人。灯を持つ人。」 director:Keisuke Sugawara actor:Keisuke Sugawara,Christina Dyekjær photo:Kei Tanaka

非表示ルートを走る

ベルリンに来た時が5月21日。あっという間にベルリンに滞在してから半年間が経過し、ヘッドホンを着けながら電車に乗ることも怖かった当時も、今では半分寝ながら乗り継ぎができるほど、この街にも”とりあえず”慣れてきたように感じる。 暫くは電車での移動がメインだったが、ある日マコトさんから今は使わなくなったお下がりのBMXを譲っていただいた。マコトさんは簡単に説明すると「ベルリンの灰野敬二」みたいな人で、いつも会話の最後は「今日も話し過ぎた」と言ってごめんねと謝ってくれるサイコな部分もあるけれど優しい人だ。 11月の早朝5時半、私はGoogleMapに表示された通りのルートを走っていた。自宅から目的地までの間には大きな下り坂があり、その下り道の一番裾まで一気に下り切ったところで、交通量の多い道路を直線に走る経路だった。その経路をマコトさんに話すと「その道よりもっと景観も良くて最短距離の経路があるよ」と、地元を精通したタクシードライバーの如く、マップには載らない”非表示ルート”の通り名から何個目の曲がり角を右折する等、詳しく教えていただいた。 GoogleMapでは教えてくれない経路に若干の不安を覚えながら、翌日教えてもらった通り、大きな下り坂を降りる直前、自転車道のある道へ右折する。以前の道は景観も淡々としていて交通量も信号も多く、各所で信号機に引っ掛かり失速しなければいけない時が多かった。だが、新しく教えてもらった道にはしっかりと自転車道が確保されており、景観も良く、信号機も少ない。考え事や思いに耽るには格好の経路だった。 そして何より、GoogleMapで最短ルートとして表示されていた道よりも近く、体力の消耗も少なく済み、流石、長く住んでいる人の言うことは本当だったと後日電話で感謝を伝えた。 この日から、走りながら独自のルートを見つけ出すことも大切だけど、こうして初めからショートカット出来る部分は人から習って試してみることも学び、そのお陰で毎日の自転車移動が楽に感じるようになったし、地図も見ずに景観や通り名で大体の居場所が分かるようになった。 自転車に乗っている間、基本的には最近起こった出来事や最近話した話題について振り返ることが多い。最近でいえば、自身の言動に対して賛否両論やヘイターが出ることに対して恐れない様に構えることだったり、中途半端な知識や文章には誰の心も動かせないということ。 文章を書く人のことを表現者とするならば、本当に読まれるものは、何かヤバイことが書かれていそうだったり、タイトルを見てハラハラドキドキしたりするものなんだろう。 ライターやジャーナリストはどうしても情報量過多になりやすく、広く浅くなってしまいがちな面もある。だけど私はもう少し、自分の性格に慣い、いっそのこと完全にアンダーグラウンドに振り切ってしまってもいいのかもしれない。私はくそったれの馬鹿野郎だから。何度も「そうした方がいい」と言われながらも、どこかで身綺麗で居たいという自分もいたから、放送コード気にしたり禁止ワードに過敏になりすぎていた部分もある。 ただある程度「非表示ルート」を上手く通り抜けるためには、先ほどの自転車ルートのようにAパターン、Bパターン、複数のパターンを認知していることが重要だったり、また走っている時の景観が大事みたいなことと同じように、執筆中のフィーリングが「気持ちいいかどうか」という部分が、シンプルだけど大切だったりする。 不愉快なものを愉快がる人もいるし、批判・批評する人生の先輩と呼ばれる人たちも、恐らく私より先に死ぬ。そう思えばちょっとくらい枠からはみ出してもいいかもしれないな。今はまだ恐る恐るだが、少しずつ、マップに載っていない独自のルートを作る過程段階へ突入する。

寂しさの裏を知る

ちょうどさっき、日本からベルリンに滞在していた友人をテーゲル空港まで送り届け自宅に着いた。アパートのエントランスを抜ける前にポストの中身を確認すると、ちょうどさっき空港へ送り届けた友人からのポルトガルで書いたであろうポストカードが届いていた。ほんの数時間前までここで一緒に朝食を取っていた光景を思い出し、また別れのハグで少し目が潤んでしまったこともあって、私はそのポストカードと唯一日本から持ってきた大きな抱きぐるみを抱え、ナンニモナイ空虚な部屋で感情のままに泣いた。 友人が滞在していた2週間は、私自身、ベルリンの気候の変化や感情の変動が目まぐるしく、友人が観光から帰ってきても背中を向けてパソコンをずっと触ってばかりで、ゆっくりと話すことも出来ないでいた。自分は家族以外で人と一緒に生活をした試しがなく(4歳の頃から風呂場には一人で入り鍵を閉めるほど一人の空間が大事な人間だった)、自分自身を追い込むときに出る空気感やあらゆる感情に揉まれる私をみて、彼女は心から安堵して滞在することが出来たのだろうかとか、色んなことを考え込んでしまった。 失恋や別れの何がこんなに悲しいのかって、相手を失った喪失感というよりは、自分の身体の一部が欠けてしまった事に対する痛みなんだと思っている。勿論それがほんの数回しか面識のなかった友人であっても、そこにドラマが生まれれば、それは自分の細胞の一部になる。 送り届けた帰り道、私はいよいよ本当に自分自身と対面し真剣に向き合わないといけない時が来たと思い、別れの悲しさとこれからのベルリンでの生活に対するプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。これまでは「人が家にいるから」という理由で少し自分に対して甘えの対象があった分、また一人の生活に戻ったことでギアを切り替えて行動していかなくてはいけなくなった。その時、自分では気付いていなかった「ああ、私は間接的に友人に甘えていたんだな」という感情が冬の衣服に滲んで濡らし、ひやっとなってまた涙がでそうになった。 寂しいと思うとき、人間だれしもその感情には裏があるんだと思う。 今回の自分のケースも、ただ単に友人が日本に帰ってしまったことに対する「寂しさ」というシンプルなものだけではなく、その先の生活に対する「恐怖心」や「劣等感」、またそこから派生して日本に残る家族に対する自分勝手な罪悪感など、複数の場面がリンクして「寂しい」は生まれるんだと知った。私の寂しいという感情は、依存心ではなくその奥にある別の感情から成るものであり、究極、その答えは「自己肯定の低さ」に現れるというところまで行き着いた。ただそれもポジティブに考えれば、自分の選択した道順に沿って周りの意見よりも自分の五感と直感を大切に生きているということにも繋がる。 ただ自己肯定の低さを認識しているということは、どこかで何かに依存しているものがあるはずだと。そういう思考までは分析できてもその先はまるで自分でも触れたくないかの如く、蓋を閉め切ったまま自らもそれ以上詮索しなかった。だから、私は人と常に60%のパワーで付き合っていくことを心がける。もしかして、この比率を間違って、相手に対して愛着を持ってしまい90%のパワーで接してしまったらとか、その先の自分のリアクションも把握が出来るから、私は一人でいるということも…分かっているんだな。お前も大変だな。 ポストカードで別れの挨拶なんてずるいよ。ポルトガルの風景を切り取ったポストカードの裏には、たった数行だけだけどとても大きな愛情を感じてとても嬉しかったよ。この複雑な私の感情も過去も、全て認めてあげることができたらいいよね。ありがとう。    

母孝行

今日8月28日は、母が亡くなって19年目の命日なので、今日はなんの予定も入れず、ずっと母と対話しようと決めていた。私が唯一持ってきた一枚の母の写真と一緒に、今日は母の好きなビール(本当はアサヒビールが好きだけど)と、ケーキとお花を買いに出かけ、その途中でブログを書いている。 とにかく厳しくて、私の意思を全く無視してスカートを履かせ、大嫌いな女の子の服を着させたかった母に、毎日反抗し、家を出た後、近所の公衆便所で自分で選んだメンズライクの服に着替え、帰宅する頃に、母の指定したスカートルックに着替えていた。毎週スナックに通う母に付き添い、そこでいつも大量の小魚スナックとラムネを与えられ、母が楽しそうにオカマのママと談笑しているのをパジャマのまま見ていた。 そんな11歳の夏休み最終、母を亡くした時も一切涙は流れず、ただただ感情の発散方法がわからず、通常通り、なんでもない学校生活を送っていた。 時間が経つにつれ、母がいないことに対してやりきれない後悔と虚しさを感じ、それと同時に今まで母に全ての行動を縛られていた分、解放された犬のように私はどんどん野生化していった。この何十年か、私は母の死に対して、ただ自分の寂しい思いや、悔しさ、許しを請うような感情を剥き出しにするばかりで、30歳になるまでしっかり母親と落ち着いて対話をしてきてこなかった。 ベルリンに来て初めて、ようやく母の写真をじっくり眺め、母が好きなビールを一緒に飲んでいる。母が生きていたら、きっと私は結婚し、幸せな家庭を作っていただろう。それも全ては母の作戦だから(笑)。ごめんね、作戦通りにいつも動く子供じゃなくて。 ただ、母は純粋に私に安全な暮らしを与えたかったのだと思う。母が生涯、望んでいた暮らし。母は、いずれ私と2人で暮らしたかったのだと思う。その願いも、もし現在生きていれば、恐らく母は高所恐怖症なのでベルリンまではついてこれなかったんじゃないかなと思うと、霊魂となって自由自在に動き回れる分、母も今の方が人生楽しいんじゃないかなと思ったり…。 たまにクソ真面目な自分の性格が見えた時に、今でも私がやること成すこと、全部母に操作されていたり。なんて想像して「もうやめてー」と思いながらも、いつも守ってくれてありがとうと思っているよ。 今までネガティブな感情飛ばしまくって泣いてばかりでごめんね。私はもう自分を許すことにします。まだまだ時間はかかるけれど、今後は何かの形で、あなたに関しての作品を作れるようになりたいです。あと、結婚は期待しないでね(笑)。

Reflection

ベルリンで活躍する音楽家Makoto Sakamotoさんの新しいアルバム「Reflection」が8月にカセットテープ及び、AppleMusic、Spotify、SoundCloud等のサブスクリプションにてリリースされた。まだ実際のパフォーマンスを拝見したことがなく、ファーストインプレッションとなる。 先ず、最近カセットテープが再熱している件について少し話したい。 やっぱりデジタル音源もいいけれど、アナログ音源として実際に物質として残すことは、本来人間が好んでやってきた「記録する」という習性に習っているように感じる。個人的には、今後、CDは衰退する、もしくはMDのようにこの世から無くなってしまうものだと思っている。そもそもCDというものは、標準44.1KHz/16Bitのデジタル音源であって、それをわざわざPCにダウンロードして聴いているような人ももはや居ないに等しい。物質として手元に残すのであれば、私はVinylやカセットのような、少々聴くのに手間がかかるものを選ぶかな〜とか考える。 アナログのいいところは、試聴者側が音を鳴らすまでの「所作」にある。 カセットであれば、透明のビニールカバーをチーッと剥がして、今や持っている家庭も珍しいだろうカセットデッキに挿し、暫くのリール音の後に続く音に耳を澄まして聴く、この一連の所作に愛着が湧くのだ。 そもそも、カセットテープはチープな音がするという言葉に少し疑問を持つときもある。カセットテープは、レンジ(音の帯域)がデジタル音源に比べると狭く、中音域にエネルギーが集中しているので、音に広がりが感じられにくいという部分はある。デジタル音源に比べ、収録できる周波数に限りがある分、その中でどれだけ空間を集約させるかに、昔のアーティストや音楽家は一生懸命考えたんだと思う。 “音の良し悪し”は、単に数字で測れるものでもなく、肌や匂いなど、五感を使って感じられるものがあるということに気づくことが出来れば、もっと面白くなるのになと思う。 「Reflection」に収録されている楽曲について、実は本人より事前にこのアルバムのコンセプトについて話を伺っていた。ただ、完全に個人の意見になるが、特に印象的に残ったシーンをタイトルと一緒に、今回は解説ではなく、考察していきたい。 1.「I Hope You’re Feeling Better」 先ず「Reflection」の全体を聴いて初めに感じた印象は、宇宙空間のような壮大でスピリチュアルなものというより、どこかパーソナルで、郷愁のようなものだった。 「I Hope You’re Feeling Better」の冒頭、目を瞑ると見えてくるのは、ノスタルジックな色合いに染まった風景で、靄がかった草原や浅い川が見える。人の気配も感じられず、ただグレーでスモーキーな風景が広がっているだけ。 途中から、ふと、人の気配を感じるのは、一台の小さな白い車が、ただ真っ直ぐで平たい道を走ってゆくのが見えたから。それまで気配のしなかった様子から、もっと感覚を集中させると、徐々に辺りの濃淡は薄まり、遠くで1軒の小屋が見えたり、鳥が数羽、浅瀬で水を飲んでいたり、徐々に視界がひらけてゆく。 冒頭1曲目から13分というとても長い楽曲だが、1曲目にして、このアルバム全体のエピローグ(物語の結び目)を表しているようで、アルバム全体の重要なテーマを訴えかけてくるように聴こえる。曲の始まりと終わりで、少しの余白というか、敢えてホワイトノイズのような音が流れる。まるでVHSをビデオデッキに入れた後のほんの少しの”ポーズ(休止)”みたいだ。1枚の写真を見て、そこからある程度のストーリーが把握できるように、「I Hope You’re Feeling Better」は作品全体の回顧録なのだ。 そういえば、アナログレコードに関して、外周を使う1曲目の方が音質的には有利であり、音楽の情報量は時間あたりにトレースできる溝の長さに比例するので、外周の方が音質は良くなる。だからアナログレコードは1曲目が最も推したい曲である、という話を思い出した。 2.「Reflection」 続く、2曲目にアルバムのタイトルでもある「Reflection」。1曲目で早速、このアルバムの核の部分を見たような気になったので、ここからようやく物語のページをめくっていく感覚だった。 この曲では視点が変わって、部屋の中で眠っている最愛の人の息遣いや、体温を感じる。シーン全体を捉えるというよりかは、ズームした視点で、肌質や髪の柔らかさを間接的に触れているような感覚だった。シルクのカーテンの奥で反射して、眩しいけれど、その先に、愛おしさや尊さを感じ、相手を想う。シンプルなピアノのメロディーが穏やかで、その音が何層にも重なり、輪郭がぼやけてゆく様子が視覚化される。この曲を聴いていると、母親や父親から優しく撫でられながら眠りについた幼い頃の記憶が蘇る。きっと親にとって子は、光のように尊く繊細な存在であり、無償の愛を注げる形のある命なのだと語りかけてくるかのように。 3.「You Are Thinking About Yourself」 前2曲と比べ圧倒的に短く、時間の速度が違って見えた。まるでフラッシュバックしているかのような断片的な記憶が幾重となく繰り返され、そして、もう戻ることはない違うステージへ進んでいくようだ。 2分30秒という時間の中で、これまでの2曲は1シーン限りの断片的な物語に見えていたものが、3曲目で一気に形が交ざり、”浄化”されていき、そして現在・未来へつながっていくようなそんな気分になった。体感速度ではとても早く感じるが、恐らく、時間の経過は曲の時間に反比例し、とても長い年月を集約したものを表しているように思えた。 4.「Will Soon Calm Dawn」 ここまでで、自分の心拍数が少し荒々しく、やや乱れていることに気付く。 このアルバムを聴いて感じたことは、収録された全ての曲を最初から最後まで通して聴くと柔らかな曲として聴こえるが、一曲一曲はとても重く、静寂の奥にある違和感と緊張感にはっとする。安心と不安、私たちは常に両方を求めている。 音楽とは、私たちが想像するよりも、もっと形をなくすことも出来れば、あらゆる形にだってなれる。そんな道しるべを見つけたように感じて、この自分の異変にも納得がいくような気がした。 「Will Soon Calm Dawn」では、過去の記憶から覚め、冒頭1曲目で見た同じ風景が見える。広い草原や浅い川は以前よりも明るく澄んで見え、身に纏った洋服の裾が風にそよぐ。霧は遥か遠く、初めにいたあの頃からは随分と時間が経ったようで、もしかしたらほんの数分前のことだったのではないかと、やや寝ぼけた様子で考えているように見える。 5.「See You Again」 私はこのアルバムを通して、これまでの過去の音楽で培った感性は捨て、ありのまま、素直に感じるままに書いてみようと思った。この考えを持って「See You Again」を聴くと、1曲目と4曲目、2曲目と5曲目の印象が少し似ているように感じる。 1曲目に初め感じていたエピローグという表現も個人的には好きな考察だが、「I […]